『その想いをかたちに』
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お葬式コラム

お葬式コラム ~ 思ったこと、感じたこと、考えさせられたこと ~

2017年 11月 12日(日)~ あまりに俗っぽくて笑ってしまう話 ~
 まずは、11月8日付、京都新聞 web版 をご覧ください。

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 あまりにも俗っぽくて呆れかえってしまいませんか?

 最近私は宗教者や寺院に対して比較的否定的なことばかりお話しているような気がします。つくづく感じるのは、慈悲だとか悟りなどといった言葉は言葉としてあるだけで、実体のないもの、空想の産物として扱われてしまっているのではないかと思います。今ある仏教界、言い換えるならば宗教法人というものはあまりに世俗的かつ煩悩にまみれたろくでもない世界のような気がしてなりません。このような状況は既に平安時代からあり、俗に末法思想と呼ばれ今でも使われる、『世も末』という言葉が生まれた時代背景と似ているような気がします。

 そもそも宗教は『死』そのものへの恐れや、『死んだ後』自分がどうなってしまうのかという人々の不安な気持ちに付け入る形で広まってきたのではないかと私は思っています。現在と違い、とても清潔とは呼べない環境の中、医療も進んでおらず、戦もあり、食糧事情もままならない世界では、今よりももっと人の死は身近にあったのだと思います。現に20世紀初頭までの世界の平均寿命が31歳足らずだったということを考えれば、それこそ【いつ死んでもおかしくない】状況に人間は置かれていたわけで、いかにして長生きするかが民衆の人生における重要な課題だったのではないかと思います。あくまでも私の想像の域を出ませんが、そうした人々の願望を叶えることができるかのような事を説法に織り交ぜて信者を獲得していったのではないかと思います。

 そもそも本当に人々の救済のためにすべての宗教が起こったのかということ自体正直、疑念を抱かざるを得ません。教祖(開祖)が、信者に喜んで財産や食料を寄進してもらうための手段としてそれぞれの時代の災厄を利用していたのではないかとも思います。人を信じ込ませるためには何らかの奇跡が必要ですから、口から出まかせで言ったことや、無知に付け入る形で後から理由付けした偽物の奇跡があったとしても、運良く人々が信じ込んだ、或いは誤認したことであったとしても、信じ込んでしまえばこっちの思うつぼです。

 なぜならば信者の獲得こそがその宗教を流行らせる、普及させる普遍のテーマであり、そうして獲得した信者は、教祖やその教えの格上げに大いに役立ったに違いないからです。これはもう世間の無知に付け込んだ現代の悪徳ビジネスと何ら変わらないのではないでしょうか? いつの時代も人間の欲深さは変わらないものです。他人より自分の方が知識があるということは、最強、最大の武器になります。それを自分の欲求を満たすために使うのか、或いは人々のために使うのかによってその教えの価値は180度変わってくると私は考えます。

 宗教法人の中で俗っぽい争いごとや金儲け主義がはびこるのであるのならば、宗教法人の承認を返上して、株式会社○○寺 という風に改めれば良いのではないかと思います。(T. M.)

このコラムは個人的見解を示すもので、株式会社セレモニーの意見を代弁するものではありません。
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